広島地方(安芸国)の鋳物史
広島市工芸指導所 石谷凡夫
はじめに
広島地方で,近世以前に活躍した鋳物師達の事蹟を尋ねようとしても,その手掛りを得ることが非常にむずかしい。かつての時代に作られた鋳物の遺品である梵鐘や神社,寺院の用具のほとんどが,先の大戦で軍需用金属として徴集されてしまい,また鋳物師達を記録した文書類が極めて少ないことが,尋ねる道を雲霧の中に消え入らせている。
元来,地方在住の鋳物職にある者は,近在住民の生活や生産に必要な器具の製作を本領とし,神社,寺院の用具は求めに応じて作っていたのが実情ではなかったかと思う。
鋳物職は現代の状況を勘案しても理解できるように,もともと集団職と考えてよかろう。遺品に刻まれた鋳物師の名は,その鋳物の製作にたずさわった集団職の頭領であることに変わりはなく,実際作業に従事し,名を残すことがなかった数多くの鋳物師達がいたことに思いを馳せることも必要であろう。
しかし,そうした鋳物職の資料は,今ではまったく掴むことができない。遺品が語る鋳物師の断片的な活動をつなぎ合わせても,鋳物職の実態を鮮明に描くことは困難である。
つまるところ,断片的な資料に,今に残る伝承を添えながら,格式を重んじ,世襲職ともなっている鋳物職が地方へと定着した事由を,その時代の社会情勢を背景にしながら,追ってみることにしたい。
広島地方は,古来の名称では安芸国である。安芸の中心といえば広島であるが,広島の街は,戦国の武将,毛利輝元が16世紀末(西暦1591年),太田川の河口洲に城を築いたことから始まっている。
だいたい安芸は,急峻な山が海にせり出し,海岸には狭小な平地がわずかにみられる程度で,全域累累だる山に覆われ,その山間には盆地が点在し,海上には大小さまざまな島が浮んでいる土地柄である。
瀬戸内海は古い時代から,海上交通の要路となっているが,安芸には歴史的に大きな港町の発達が見られない。これは大きな入り江となっている広島湾の沿岸に沿う航路をわざわざとらなくても,湾口に連なる島伝いに船を進めて,日程を短縮し,主要な島に停泊港を設けるなどして,船旅の途次のなぐさめを得ていたようである。
安芸の宮島は,広島湾の波静かな深奥部にあり,本土からは指呼の間に位置している。宮島に鎮座する厳島神社は,もともと舟入や漁業者たちの守護神としてあがめられ,島全体が神格化されて,海上遥拝の信仰を生んでいる。平安の昔,平家一門が西国領有に端を発して,厳島神社は平氏の氏神として世に出て以来,社殿は宏壮絢爛によそおいを改め,上皇の行幸も行われている。
厳島神社は安芸の国では,有力な勢力を保持し,社主は地方豪族であり,地域社会の政治,経済はもとより,文化にも大きな影響を与えてきた。
廿日市,山田氏
宮島を眼前に望む廿日市は,広島の西方約20kmに位置する。山陽道の宿駅になり,古くから集落を形成しているが,ここから山間部や山陰地方(石見国)へ通ずる道もひらかれ,また厳島神社参詣の渡海地となって栄えた所である。
安芸には古代的集落西条盆地をはじめとして,沿岸部や山間部に相次いで営まれ,神社,仏閣の建立がみられるにもかかわらず,在地鋳物職発祥を物語るものが,何ひとつ存在しない。
この地方で最も古い梵鐘といわれる宮島の求聞持堂のそれは,治承元年(1179年)の作であるが無名である。平家一門が寄進した梵鐘で,おそらく当時の中央(京,大阪あたりか)で鋳造されたものであろう。
江戸時代、安芸と備後の一部を統治した浅野藩が、寛文3年(1663年)に編纂した「芸備国郡誌」は、安芸の鋳物の始まりを鎌倉時代においている。
鎌倉幕府は文治1年(1185年)に実質的に開かれているが、京都では、朝廷への政権返還を策謀して、天皇に心を寄せる武家、社寺を誘い、幕府と交戦したのが承久の変(1219年)である。この合戦は全国に波及し、各地の豪族、社寺にいたるまで2派に分かれて対峙しているが、厳島神社は、平家一門の信仰以来、上皇の行幸もあっただけに、朝廷への崇敬は格別であり、京都での挙兵が伝わると、安芸の守護(宗孝親)とともに京都方に加担し、幕府に対し叛旗を揚げた。
しかし、基礎が固まり、武力に勝る幕府は朝廷側を簡単に破ってしまった。一旦京都が敗北してしまうと、もう地方では戦うことが出来ない。廿日市地方の豪族で、厳島神社の社主を数世紀にわたって世襲してきた佐伯氏は、朝廷側に立ったがために、廿日市桜尾城から追放されるとともに社主職をも奪われてしまった。
鎌倉幕府は佐伯氏を追った後、御家人の周防前司藤原親実を佐伯氏の所領支配と併せて厳島神社の社主に補任した。その時期は承久の変の翌年承久3年(1221年)である。
藤原親実が安芸着任を終えて2年後の貞応2年(1223年),厳島神社は大火にさらされ,社殿の大方を焼失している。神社の火災は先年(承元1年,1207年)にも起こり,安芸国の税を再建費にあてて8年の歳月をかけ,ようやく完成したばかりである。
新社主は社殿再建に非常な熱意を注ぎ,朝廷も安芸国人の協力を訴えて,前回の火災修復と同様,安芸国を造営料国に指定し,造営を急がせた。
この社殿再建はなかなか進まず,10数年の歳月をついやしている。とうとう藤原実視は,再建工事を早めるため,鎌倉幕府へ各種の職人(工人)の派遣を要請した。このため瓦工,金工などの職人多数(10家族という)が西下してきたが,この職人たちにまじって,鋳物師山田次郎貞則も同道してきた。「芸備国郡誌」では,後世大吹屋,小吹屋の屋号を伝えた金工(鍛冶職人)の小泉十郎,小泉勘九郎,松浦氏などの名もあげている。
山田次郎貞則は,鎌倉扇ヶ谷の住人山田越後守貞正の次男であるという。鎌倉在住の時には,既に鋳物職に精通していたらしく,安芸移住後ただちに廿日市桜尾城の城下に鋳物場を開いて,厳島神社に用いる器具を鋳造したことが伝わっている。
厳島神社の社殿再建は,鎌倉から移ってきた工人達の精励によって順調に進み,間もなく竣工したという。その功により工人達は,それぞれ廿日市に土地を下賜されて定住したといわれる。
山田貞則ら工人達の安芸国への移住は,「芸備国郡誌」では承久3年とし,浅野藩が文政8年(1825年)に編集した「芸藩通誌」では,一説として天福年中(1233年)をあげているが,状況から推察すると,天福年中とするのが妥当性があるように思われる。
廿日市に鋳物場と住宅を構えた山田貞則は、厳島神社専属の鋳物師となって、神社用具の製作に専念した。このため神社から「永世他家の鋳物は不要」と公言される庇護を受けるとともに、付近住民が使用する日用器具類の製作は山田家が独占するところとなった。こうした実績がもとで、神社では山田貞則を「安芸一邦治方之長」としてたたえている。
山田貞則が鋳物職の「長」であるとすれば、当時、山田氏の他に鋳物師が存在した形跡は認められないだけに、彼は彼の下で鋳物職に従事する職人を何人か確保していたことになる。
山田家譜(河面道三郎編)によると、山田氏は貞則以後、代々鋳物を継承して数百年間家業を保っていたが、明治中期28代目の時に絶家となっている。
山田氏の鋳物業は初代貞則以降、江戸時代初期の16代證友にいたる間が総じて活発に行われているが、その後は廿日市のいわゆる旧家として庄屋(名主)ならびに本陣をつとめ、鋳物業は副業的な色彩を強めて行った。とりわけ江戸時代の後半になると衰退の兆しをみせ始め、幕末に至ると名目上の業態に近い状況にあったようである。
山田氏歴代の鋳物の遺品は、厳島神社をはじめとして広島近郊に数点散見されるが、梵鐘等記録的に有効な資料のほとんどが、第二次大戦時、軍需用地金になってしまい、その跡をしのぶことができない。
海田、植木氏
広島の東隣、海田市(現在は海田)は古くから宿場町として発展した所である。
江戸時代の初め頃、山田次左衛門直次と名乗る鋳物師が、この海田市で鋳物業を興した
と伝えられている。「芸備の国郡誌」によると、山田直次は明歴2年(1656年)に至までに、すでに海田市の鋳物師として活躍していたようである。彼は廿日市山田氏の一族といわれ、何時頃海田市に移り住み、また転住の理由についても明らかにしていない。
植木氏の初代とされる植木六郎兵衛直増の名が初めて記録されたのが寛文3年(1663年)であるが、山田直次と植木直増のかかわりはあいまいである。
口伝では直増は直次の弟子であったといい、直増が若くして廿日市山田氏に弟子入りし、主家の次男を誘って海田市に帰り鋳物業を興したとも言う。
こうした話から察すると、植木氏の鋳物業への進出は、廿日市山田氏の援助に負うところが大きく、一種のノレン分けが行われたように受けとれる。このためかどうか不明であるが、海田市の山田氏の名は直次1代で消滅している。
植木氏も屋号は金屋とい雨。伝承では、海田市金屋は旧い家柄で、代々金屋次右衛門を襲名し、17~18代も継承され、建歴の蔵所の御牒を有していたというが、これは廿日市山田氏を師としたところから喧伝された話であろう。余談ながら廿日市山田氏歯、江戸時代において次右衛門の名を数代にわたって襲名している。
海田市における植木氏の鋳物業歯、代を重ねるにしたがい順調に発展し、宝暦10年(1760年)、5代目の直昌が安芸藩浅野家の御用をつとめたことから、藩御用鋳物師隣、天明5年(1785年)に彼は「芸備鋳物師筆頭」に推されている。
平素は近郊住民が用いる鍋釜、農具などの製作に携わっていたようであるが、寺鐘の鋳造も多い。
とりわけ江戸時代中期の宝暦頃輩出して、名工とうたわれた植木新助尉貞行(直昌の弟にあたる)は、俗に金屋新助の呼称をもって、安芸国内の寺鐘を数多く手がけたといわれる。
7台目植木六右衛門は幕末から明治にかけて活躍した人であるが、彼の代においても芸備鋳物師筆頭の地位を維持し、鋳砲の製作にも奔走していたようである。
明治2年、広島の比治山で鋳物業を始めた宗像氏は、元来海田市の人で、植木氏に師事していたらしい。宗像氏が所有する元治元年(1864年)製作の鋳砲の穿孔機などの図面は、宗像氏が独立した鋳物師として製作にあたったものではなく、植木氏の下で、職長的な立場に居たことから手許に残されたものであろう。
植木氏は六右衛門を最後に鋳物業は廃業されている。その時期は明治中期にあたるという。
可部,三宅氏
広島から北へ約20Km,太田川の河畔に拓けた可部は,広島県北の山間部や山陰地方と瀬戸内海沿岸部との物資流通の中継地として,古くから栄えた街である。
鎌倉時代,可部高松城によった三入荘(可部地域)地頭職,熊谷直時は関東から承久3年(1221年)に入部したが,代々その職を継承し,戦国の世にも毛利元就に随身している。
戦国時代,この熊谷氏の家臣に三宅勘兵衛と称する武士がおり,高松城三入村に居住していたという。関ヶ原の戦いで,西軍総大将となった毛利輝元は,敗戦後大幅な減封のうえ,広島から長門の国,萩へ移されたが,この時,三宅勘兵衛は熊谷氏の禄を離れ,三入から可部に移住して帰農するとともに鋳物業を興したことが,可部鋳物のはじまりだと言う話が伝わっている。
また一説では,三宅勘兵衛は元亀頃(1570年代)から可部鋳物のさきがけとなって活躍しており,熊谷氏の御用鋳物師でもあったという。そうした口伝に対し,比較的信憑性の高い話として,廿日市山田氏の庶流といわれる久枝壱岐が天文頃(1540年頃),可部へ移り住み鋳物業をはじめた。久枝氏は2代で終えるが,元亀元年(1570年)三入神社の釣鐘を製作しており,可部鋳物は壱岐に由来するものがあるという。
たしかに可部は,鉄産業に必要な材料(玉鋼,ズク銑,炭等)の集散地であり,鍛治,鋳物業の発祥には恵まれた環境にあるが,その材料を生かす技が存在しない限り,産業は決して興るものではない。
三宅氏の名が記された最も古い遺品は,文化5年(1808年),三宅惣左衛門延政によって作られた鉄灯籠である。この鉄灯籠は,当時太田川を上下する川舟の発着場に据えられたもので,今なお褐色の肌もあざやかに雄姿をみせている。
これより4年後の文化9年,厳島神社の回廊に設けた擬宝珠は三宅勘兵衛延政の銘が刻まれ,さらに2年後の文化11年に製作された可部福王寺の鉄灯籠は三宅宣義の名を印している。
わずか6年の間に三宅姓を名乗る鋳物師が3名出現しているが,この時期から10年後(文政7年)にまとめられた安芸および備後の鋳物師名簿「芸備鋳物師株」では,可部に3名(3株)の鋳物師の居住を記し,3名とも姓名は附されず庄蔵,勘兵衛および九右衛門となっている。また万延2年(1861年)の名簿は,可部に2人の鋳物師が営業していたことを示し,1人は三宅半五郎,他は鋳物師屋勘兵衛としている。
ここでやや立ち入った推察を加えると,可部鋳物師は三宅氏と鋳物師屋の流れに集約され,文政7年にいう鋳物師九右衛門が三宅氏にあたり,鋳物師屋勘兵衛はそのまま後代に襲名されてきたものであろう。
江戸時代,三宅氏は可部の土地の大半を所有し,代々庄屋を世襲してきたという。そうすると三宅氏自身は実際に鋳物の製作を手がけたわけではなく,可部における鋳物師の頭領として君臨していたようにうけとれる。
可部の鋳物は,現存の史料を元にすると,江戸時代の後期に開花したものであると言わざるを得ない。丁度その頃から盛んになった山陽側の「たたら製鉄」では,「ズク鉄」の生産が多く,材料的な好条件と相まって興隆してきたものであろう。
安芸浅野藩においても,幕末,大砲の鋳造を藩内の鋳物師に厳命している。可部では三宅氏が藩命によって銅砲を製作することになり,近郊から銅地金(梵鐘類)を徴集し,鋳造にとりかかったが,とうとう完成することができなかったと伝えられている。
銅鋳物の経験が不足したことが原因なのか,あるいは他に支障となる事が生じたためなのか,その詳細は判らない。
明治2年,既に幕府は崩壊しているが,地方では藩政が今なお続いていた頃,浅野藩においても,当時の通貨である寛永通宝を秘密裏に作ることを策し,まず高宮郡の割庄屋(郡長)木坂文左衛門に密命した。木坂文左衛門はそれを三宅氏に伝え,無理を承知で貨幣を鋳造させたと言う。これは藩庫の窮乏を救わんとした,藩をあげての贋金作りである。
この秘密は明治4年,遂に発覚し,非法を追求されて,木坂文左衛門は打ち首,三宅氏は閉門となり,一家は四散の悲運にあったという。
白市,伊原氏
「芸藩通誌」は,文政頃(1820年頃)の鋳物師運上銀(税)を
安芸郡船越村(海田市)
20匁
高宮郡可部町
80匁
加茂郡白市村
50匁
山県郡大朝村(鋳物師用炭を含む)
22匁5分
御調郡宇津戸(備後国)
65匁
のように記録している。これによると白市在の伊原氏は,植木氏をしのぎ,かなり繁昌していたことがうかがえる。
伊原氏は江戸時代,商人の街といわれた白市に居を構え,鋳物業を営んでいるが,創業の時期は不祥である。口伝では天明頃(1780年頃)以降といい,文化年間(1800年頃)ともいわれるが,いずれにしても江戸時代の後期に入ってからの鋳物職の成立である。
伊原氏は代々惣十郎を襲名しているが,何代目の惣十郎が創めたのか明らかでない。鋳物業が軌道に乗ったのが,だいたい文化,文政(1800〜1820年)頃で鍋釜,農具をはじめ寺鐘にいたるまで鋳造していたようである。
鋳物師としては新参の伊原氏であるが,鋳物師株を獲得し,藩免許の鋳物師から勅許鋳物師へと順調に歩み続け,幕末には,植木氏と同格の芸備鋳物師筆頭にまで昇っている。いわば一介の職人から立身した秘密,実績は何であったのだろうか。
現在伊原氏の遺品として眼にすることができるのは,厳島神社の回廊に立っている灯籠が唯一のものである。製作は文久3年の見積書からみて,翌年の元治元年(1864年)に行われたものと推定され,銘は伊原惣十郎藤原政義となっている。
当時の伊原惣十郎が書き残した控え帳には,朝廷への灯籠献上,近郊の寺鐘製作と併せて,棒火矢と称する小型鋳砲を安芸藩へ献上したことも記録されており,激動変転する幕末の世情に直面しながら,在地鋳物師のつとめをまっとうしている。
伊原氏の鋳物業は明治以降もひきつがれ,つい数年前まで家業として営まれていた。
三原,吉井氏
芸備国郡誌は三原(当時は沼田荘)に鎌倉時代末期より鋳物師の存在を記し,津守守真の名をあげている。守真は摂津国住吉郡我孫子より来往したといわれ,嘉元4年(1306年)に製作した伊予・石手寺の灯籠台座(鋳鉄製)が唯一の遺品である。
沼田荘は沼田川流域に古くから拓かれて田地の拡がりが大きい荘園である。鎌倉時代の初め土肥実平の子,小早川遠平が地頭職として入部し,高山城によって荘園経営にのりだした。沼田荘は生産力が高く,また地の利を生かした市場の開設が早かったことから,鎌倉時代中期以降,在家数300と言われる市場街の繁栄をみることになる。こうした街の繁栄は各地から商工人の参集を促したものとみられ,前期守真の移住もユーザーを求めてのことであろうか。
小早川氏は15世紀には山陽沿岸や島々にたむろする海賊衆をも支配体制に組み入れ,地方豪族として強力な地盤を築いている。
この頃,御原姓を名乗る鋳物師の存在が知られている。初代を御原浄元というが,彼の来歴については不明である。津守守真の時代におくれること約150年であるが,当時沼田荘を初め隣接する備後尾道の繁栄をみると,在地鋳物師の存在があっても不思議はなかろう。
御原氏は浄元以後100年間継承され,7代目是信に及んでいる。是信は天文頃(1550年代)の人というが,御原氏はこの是信を最後にして絶え,替って元亀頃(1570年頃),吉井源三郎が輩出してくる。吉井氏の出現が,先の御原氏にかかわりをもっているのかどうか不詳であるが,地場の伝統的な鋳物の流れが絶えることなく継承されたものとみてよいのではなかろうか。
この16世紀は,毛利元就が安芸の地方豪族との融合策を積極的に進めている時期にあたり,沼田の小早川氏には元就の三男隆景が養子として入り,それまで小早川氏がもっていた支配権を毛利一族のものとした。
三原城は慶長の初め頃(1596年頃),沼田川の河口に海に面した城として小早川隆景が築城したが,江戸時代は浅野藩家老の知行地となって明治にいたっている。
鋳物師吉井氏の名は,2代目左衛門信正が天正8年(1580年)に製作した三原妙正寺の鐘(三原寺の鐘)で竹原屋を称したことから,江戸時代を通じてこの屋号を踏襲した。
芸藩通誌は,三原に藩御免の鋳物師あり,と伝え,また伝承として文化13年(1816年)榊山流大筒を鋳造し,三原城の甲器にしたというが,これは当時の鋳物師,吉井清右衛門の仕事を指したものであろうか。
吉井氏は江戸時代,9代にわたって鋳物職を継承したが,9代目の徳右衛門をもって消息が絶えている。
おわりに
安芸の国でそれなりに名を残した鋳物師5氏を紹介したが,他にも複数の在地鋳物師が認められながら,彼等の事跡を追うことができなかった。なかには1代限りの鋳物職もみられ,巷間に流布するいとまもなく消え去ってしまったようである。
各時代ごとに,地場で活躍した鋳物師達の素顔を垣間見ることができれば,と思ったが明治以後,百有余年の歳月は,矢張り大きな壁となっている。
「広島地方(安芸国)の鋳物史」はこれで終わりです。
(次回、つづきは不定期にお送りいたします)
※本稿は、支部会報「こしきNo.08(1985年発行)」より許可を得て転載しております。
無断での転載などはお控え下さい。