大正時代の鋳物製品のカタログ
(瀬良商工株式会社の紹介)
筆者の手許に大正9年(西暦1920年)頃発行されたと思われる鋳物製品のカタログ(製品目録)がある。当時 鍋,釜,風呂釜などの日用品専門の鋳物会社として,広島では随一の規模を誇っていた瀬良商工のもので,風呂釜,羽釜,料理鍋はもちろん銅子,鋤先まで網羅している。
まず製品目録に載っている瀬良商工の会社概要を記してみよう。
会社要覧
製造業 鍋,釜,徳用風呂釜等一般ノ丸物鋳造品,諸機械,
諸工具ノ制作並ニ一般鉄工業
販売業 銅,鉄鋼,諸機械,工業用品,一般金属材料及製作品ノ販売
本社 広島市堺町一丁目20番地(電話特長4番,長405番)
広瀬工場 広島市広瀬町(電話長317番)
工場坪数 2千五百52坪,熔鉱炉5基及之ニ応ズル諸設備
可部工場 広島県安佐郡可部町(電託2番)
工場坪数 1千五百74坪,熔鉱炉3基及之ニ応ズル諸設備
営業品目は鋳物に加え,一般機械類の製造販売までかかげているが,実質は鋳物の製造と販売に集中していたようである。
工場は広瀬と可部に分れているが,創業地の広瀬工場は,規模及び敷地において市内では有数の工場であったろうと思われる。
この要覧によると,当時鋳物工場の主要設備は熔鉱炉に象徴されている事が判る。ここでいう熔鉱炉は,年代的にみて,コシキではなかったかと思う。
要覧は続いて会社を紹介している。
弊社ハ遠ク天保3年瀬良嘉助氏ガ其業ヲ始メタルニ起因ス。爾来約百年間研究ニ研究ヲ積ミ,経験ハ更ニ経験ヲ生ミテ,品質ノ改善ヲ企図シテ止マズ。名声日ニ月ニ挙リ,販路年ト共ニ拡張シテ今ヤ内地ハ勿論遠ク満韓米布ニ至ル。社会ノ賞讃愈大ナラントス。
大正9年,株式会社(資本金2百萬円)ニ革メタルハ,年ト共ニ進展スル事業ノ拡張ニ策応シ益々時運ニ伴フ改善進歩ヲ計画セントスル抱負ニ外ナラザルナリ。
由来広島ハ,其風土気候最モ鋳物業ニ適シ,県下山間部ニ於テ世界ニ比類ナキ良質銑鉄ヲ産シ,木炭ノ産額又頗ル豊富ナルトアイマツテ優良ナル製品ヲ安価ニ製産シ得ル所以ナリ。
弊社ガ今日広大ナル工場ヲ有シ,数百ノ職工日夜製造ニ従事シ1ケ年50萬枚以上ノ製産ヲナシツツアルコトハ,扁ニ天恵ノ深キコト又諸彦愛顧ノ賜タルコトヲ常ニ感謝シツツアル所ナリ。
弊社ハ将来一層品位ノ改善ト製産ノ拡大ヲ図リ,益々各位ノ御高評ヲ得ベク期待セルモノナレバ倍旧ノ御愛顧ヲ賜リ,御引立アランコトヲ懇願シテ止マザル次第ナリ。 謹言
今日においても結構通用すると思われる会社の宣伝である。自社の企業努力によって生み出された製品の品質優良と安価は,鋳物業に適した広島の地なればこそ実現したと明記している事など,やや独善的な感を受けるが宣伝効果は十分あったことであろう。
この当時,広島県の山間部には木炭銑を製造する工場が多数稼働していたといわれ,材料の調達が容易であったことはたしかにいえる。またコシキの燃料にコークスはまだ姿をみせず,木炭が使用されていたことが判る。
ついでながら製品目録に記載されている風呂釜の宣伝文を転記してみよう。
徳用風呂釜(別名,長州風呂釜)
目下大流行ノ風呂釜ニシテ,煮沸迅速,燃料経済,浴心地良好等幾多ノ特長ヲ有シ且ツ永久腐蝕スルコトナク価格モ極メテ低廉ナルガタメ需要甚ダ盛ニシテ風呂釜界ノ王トシテ世人ニ歓迎セラル。
この徳用風呂釜は明治初期に考案され,年とともに需要が拡大しているが,大正時代はその利点が認識されて,一般に普及していった時期にあたるという。
瀬良商工は風呂釜の鋳造を手掛けたことから会社も隆盛に向ったと伝えられ,会社としても風呂釜の生産と販売には相当な努力を傾注していた様子がうかがえる。
しかしこうした積極的な経営姿勢が裏目にでたのか,あるいは順調な業績に満足した経営陣の慢心が起因となったのか,この製品目録を発行していくばくもなく瀬良商工(株)は倒産への道を歩むこととなった。
追記
会社紹介に年生産50萬枚の記事があるがこれは風呂釜,鍋などの大きさを表す単位として用いられていた。
標準的な風呂釜(口径80cm,深さ66cm,重量45kg)は20枚と呼称されている。
したがって50萬枚は1,125トンとなる。
また当時の生産性をみると,造型工1人が月間16〜20個の風呂釜を生産したといわれている。
(※)本読み物は石谷凡夫氏の特別寄稿文であり無断転載などは禁じております。