鋳物職の営業保証
広島市工芸指導所 石谷凡夫
現代でこそ職業の自由が保証され,どこで何をしようと本人の勝手次第だといえるが,普はそうはいかなかった。親の職を子が継承することは,江戸時代に定着した慣習とされているが,これも免許状が必要であったことは言をまたない。
しかし, これも本人が居住する領内においてのみ認められたものであって,一歩領外に出ると,いわゆる他領内の営業侵害となって,同業者からの指弾を受けることは必定であった。このため当時は,現代では考えられないわずらわしい手続きが必要となってくる。
その実態を出吹き(他領内での鋳物製作)を行う鋳物職についてみてみよう。
鋳職本所達申度御願書附
蒙御免 私共年来ワズカナガラ御運上銀ソナエ奉 鋳職渡世仕候処 法則モ御座候ニ付カネテヨリ御役所へ御願奉申上 鋳職本所京都真継御殿へ願申方達シ申度候処 近来鋳職仕成追々仕候処 御他領ヨリ鐘半鐘出吹等申来 是等請合申度手続ヲ以ツテ鋳物願 御他領商人共ト掛組 売サバキ候ハバ御正金銀ト引キ替可有之義ニ御座候 恐レナガラ御国益ノ一助ニト相成 ツイテハ手元便利ノ議ニ御座候ニツキ 御他領ヨリ出吹申来候ハバ マカリコシ調申度心組候得ドモ 本所へ無届ニテハ法則ヲ以ツテ同職ヨリ差支ノ義可有御座候ト奉存 勿論御領分ニオイテハ御免許ノ鋳物師ニ候ハバ差出筋有之マジキ候処 以前豊田郡生口島安原村宝福院半鐘出吹ノ節 備後三原町同職清右衛門ヨリ 本所無届ノ職人出吹アイナラズ様ト差シサワリ候ヘドモ 駈ケヒキ中ニ半鐘順調ニ仕掛リ 御役所表へ御願申上 御下知ヲ以ツテ駈ケヒキ仕候処 清右衛門義差シヒカエ申候ニツキ 其以来浦部筋ニ出吹仕候処 何等差支無之大ニ安気仕候処 何様 御他領ヘマカリ越シ自然故障出来候時ハ是非トモ御案労相ソナエ候様相成 御時節柄千万恐レオオイイ次第二奉存候ニツキ 此度本所真継御殿へ寸志銀差上為達 上京仕度候間 往来日数三十日 恐レナガラ御免詳ナリ遺ワサレ候義ハ相カナイ申間敷哉 寸志上銀多分ノ義ニ候ハバ 当時私共ノ場合其業相カナイ難シ 第一ハ時節柄奉恐入候得ドモ上銀ニテ達シ 御聞届成ラレ候趣ニ御座候間 何卒願之通御聞届免許成ラレ遺ハシ候ハバ 九月ノ中出立仕度奉存候間 此段宣敷御取成仰上ナラレ可願上候
以上
丑 八 月
社倉役
鋳物師 惣十郎
年 寄 木原幸右衛門 殿
庄 屋 直兵衛 殿
組 頭 源兵衛 殿
組合,割庄屋 竹内亮平 殿
当時,惣十郎は安芸藩からは鋳物業が許可きれていたが,京都真継家の免許(勅許)をもたないがために,他領からの仕事を請け負うことはまかりならぬ,としめ出しを受けながらなんとか諒解を得たけれども,これでは故障(修理)があるときは,打つ手もないと思ったのであろうか,早速に上京して真継家の許可を得たいと願い出たいきさつは面白い。この頃は献金によって簡単に勅許鋳物師の称号が与えられていたのであろうか。
村役人からは直ちに郡役所へ願状が届けられている。
右之通リ願出申候ニ付 小内トクトハカリ合申候処 前文申出之通リ近来鋳物手広ニ商事取引多ク別テモ鐘調方評判宜敷 追々御地領ヨリ頼マレ候趣ニ候ヘドモ 何様本所ヘ無達ニテハ御地領ヘマカリ越候ヘドモ同職ト差継出来不得止 御苦労ノ筋相備候様相成 恐多クモ一応本所ヘ面貫候ハバ 夫等差支モ無之至極無領義ト奉存 有掛リ趣御願奉申上候間 乍恐願之通リ御聞届ナラレ遣ハサレ下シ候ハバ 私共マデ難有可奉存候 為其書附取次奉差上候 以上
丑 八 月
年 寄 木原幸右衛門
庄 屋 直兵衛
組 頭 源兵衛
組合
割庄屋 竹内亮平
御 役 所
鋳物作りの上手さが,近郊にとどまらず他国 -この場合備後地方- にも評判となっていた様子がうかがえる。とりわけ鐘作りは惣十郎の本意とするところであったようだ。職人ともなれば他領からの要請は世間的に認められたことになり,また役人にしても,村の誇りであったろう。
幸いにして,惣十郎はこれ以降,勅許御鋳物師として,安芸国内では重きをなして行くことになる。
(伊原家古文書より)
(※)本読み物は(社)日本鋳物協会中国四国支部発行の支部会報 こしき からの転載で、当内容は第4号からのものです。
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