幕末における芸備の鋳物師
広島市工芸指導所 石谷凡夫
社会体制の固定した江戸時代には,職業の世襲が定着していた。しかし,後継者の輩出が得られないときは,絶職となることも致し方のない事であろう。こうした例は鋳物職の場合にもいえたことである。
芸備両国(広島県一円)の鋳物師を,江戸時代末期の文書2葉から概観してみると,それら興亡の一端がうかがい知れる。
芸 備 鋳 物 師 株
1.壱株 安芸郡船越村 植木源兵衛
1.壱株 佐伯郡廿日市 山田次衛門
1.壱株 御調郡三原町 吉井清右衛門
1.壱株 賀茂郡白市村 伊原惣十郎
1.三株 高宮郡可部町 庄蔵
勘兵衛
九右衛門
1.二株 御調郡宇津戸 丹下利右衛門
富五郎
1.二株 山県郡大朝村 作右衛門
源左衛門
1.壱株 三次町五日市 豊三郎
1.二株 奴可郡野津町 平三郎
興右衛門
1.壱株 高宮郡上原村 甲助
〆拾五株
文政七申(西暦1824年)霜月 掟
当 付
1.安芸郡船越村 植木六右衛門
1.高宮郡可部町 三宅半五郎
1.賀茂郡白市村 伊原惣十郎
1.御調郡宇津戸 丹下健三郎
1.御調郡三原町 吉井清右衛門
1.高宮郡可部町 奈良原屋勘兵衛
1.山県郡大朝村 京九郎
1.山県郡加計村 額助
此分ハ新株分
1.三次町五日市 大田屋茂平
此分ハ上原村 甲助株分
1.佐伯郡廿日市 山田利右衛門
万延弐申(申は酉が正しい)二月
(万延弐酉は西暦1861年)
この2枚の文書には,40年近い時代の差がある。約40年と言えば,世代の交替を物語っているが,両国鋳物職の名家とうたわれた山田家以下四家の家名存続は厳然とはかられていることがわかる。
また,当時,両国内の要所に,鋳物師の存在がみられ,特に可部地区をはじめとした山間部に多出している事実は,材料調達の面で有利さがあったのであろうか。
さて,江戸時代,爛熟した文化を誇った文化,文政の頃,15家を数えた鋳物職も,幕末動乱の時代になると,10家に落ちこみ,新規の1家を加えても昔日の盛況におよばない。
万延弐年といえば,明治維新まで7年を残しているが,黒船に象徴される西欧文化が我が国を,大きくゆさぶり,江戸幕府の基盤であった封建体制が崩れ始めた頃である。だが一般民衆には,これから訪れようとする新しい時代への憧憬と不安が交錯する中で,生活はむしろ活気さえ帯びていたようである。
万延弐年が文久元年に改元されて間もなく,我が国鋳物師の元締めである京都,真継家から次のような書状が届いている。
申 渡 書
芸備両国,近年鋳物職業 甚猥リニ付 無所恐名目申立 国市ヘ願出 休株引起シ 又ハ新場等相企職道
仕候者共有之由 甚不宜 外職ト違 鋳物職道之儀ハ堅ク不相成候事 仍而其方共ヘ急度申渡置候間 此儀右体趣 相間候ハハ早速差留メ当家ヘ態人ヲ以申出候事。
真継家 役所
文久元年(西暦1861年)酉 三月
芸州鋳物師筆頭 植木源兵衛殿
(筆者注,植木六右衛門ちなる筈)
同 伊原惣十郎殿
公儀の免許を取得していない,モグリ鋳物師が何人か居り,得々と営業を続けている様子がしのばれる。
外職ト違,云々から察すると,鋳物職の社会的地位は相当高く評価されていたのであろう。
この申渡書に続いて半年後,真継家から新株の問い合せが来ている。
以剪紙申達候弥 無異罷相済陳重之事存候然ハ去ル辰年 其許上京之節 其地可部町 世並屋伴蔵ト申モノ 鋳物職分相営居候ニ付 当表許状請候様 其許カラ可申渡旨申聞置候 然ル処其後何等之沙汰義無之候ニ付 如何之次第ニ候哉 当表カラ義其筋ヘ可罷及御通達候間 不日返答早々致承知度 尤当時モ名條ハ世並屋伴蔵ト申候哉 委細申越可有之候 仍此段可申達旨 如此候也
酉 八月二日
真継家 役所
芸州白市 鋳物師 伊原惣十郎殿
安政3年(西暦1856年),朝廷へ献灯のため,伊原惣十郎が芸備両国の代表となって上京した際,新株の擁立を心がけながら,数年間も放置していたことが判る。
この時代,新株の取得,換言すれば,公認鋳物師への道は相当に厳しかったものと想像される。絶家となった鋳物師株は,休株として保留され,地元鋳物師の世話役が,職座の秩序維持に努めていたものであろう。
この公認,未公認の差が,現実の営業や社会性に如何なる影響をもたらしていたのか,今にしてはおしはかることも出来ないが,古い慣習を踏襲した権威づけを必要としない鋳物師の出現は,新しい時代の幕開けを示唆しているかのようである。
(伊原家古文書より)
(※)本読み物は(社)日本鋳物協会中国四国支部発行の支部会報 こしき からの転載で、当内容は第2号からのものです。
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