在地鋳物師と寺鐘
広島市工芸指導所 石谷凡夫
寺鐘の製作は,今でこそ専門化されてしまい,梵鐘鋳造工場で製作されるのが通例であるが,普,といっても明治初期までは,在地鋳物飾が近郷の寺院から依頼されて,寺鐘の鋳造にあたっていたようである。
本誌で毎号紹介している御鋳物師,伊原惣十郎は,江戸時代の末期,自身の地盤である安芸国賀茂郡内をはじめとして,隣りの豊田郡にもしばしば足を伸ばし,寺鐘の出吹きを行っている。
伊原惣十郎が天保12年(西暦1842年)に作成した「鋳物師永久控帳」には,数々の寺鐘鋳造の記事が散見される。彼が最も活躍した時期でもあろうかと思われる天保年間(同1830年代)から安政年間(同1850年代)までの約20年間,前記控帳に記された寺鐘記事を拾いあげてみよう。控帳には年次にかかわりなく記録されていたものを,筆者が勝手に製作年順に改めたものである。
一、天保11年(西暦1841年)
豊田郡生口島中野村 光明寺 釣鐘 差渡シ(以下同様) 2尺
一、天保12年(同1842年)
賀茂郡原村 円福寺 釣鐘 1尺9寸
一、弘化2年(同1845年)
賀茂郡田口村 万福寺 半鐘 1尺1寸
一、弘化2年
豊田郡梨和村 日山寺 半鐘 1尺1寸
一、弘化4年(同1847年)
豊田郡生口島福田村 広住寺 1尺8寸
一、弘化4年
豊田郡戸野村 本立寺(寺鐘不明)
一、弘化4年
豊田郡田萬里村 西立寺(寺鐘不明)
一、弘化4年
豊田郡大崎島国水 観音寺 釣鐘 2尺1寸
一、弘化4年
賀茂郡志和村掘 とふ光寺 半鐘 1尺1寸
一、嘉永元年(同1848年)
豊田郡西野村 金剛寺 半鐘 1尺2寸
一、嘉永元年
豊田郡船木村 (寺名不記) 半鐘 1尺1寸
一、嘉永5年(同1852年) 豊田郡真良村 福泉寺 半鐘 2尺
一、安政5年(同1858年) 豊田郡吉行村 西楽寺 半鐘 1尺2寸
ここにいう「差渡シ」が,寺鎮の口径の大きさを表わしたものと解すれば,ほほ口径2尺を境として釣鐘と半鐘が区分されているようにみられる。しかし同じ口径2尺でも半鐘と銘記しているのもみあたるが,これは寺院によって呼称が異なるためであろうか。
伊原惣十郎が鋳造した寺鎖は,一見して判るように口径2尺以下の半鐘が大半である。半鐘は周知のように,寺院の軒下に釣り下げて,寺院において行われる法要あるいは講話などの合図にたたき鳴らすものである。
半鐘の注文が多いことに興味をもち,惣十郎が書き残した覚え書の中から,半鐘にかかわる文書をさがしてみると,豊田郡真良村,福泉寺の半鐘を製作するにあたり,村役所へ鋳造許可を申請した書附がでてきた。
ここにその全文を転記してみよう。
豊田郡真良村 三原領 真宗福泉寺半鐘鋳替被相頼候ニ附 請合仕度段御願奉申上ル書附
覚
一、半鐘 壱本 但シ差渡シ 弐尺
右者豊田郡真良村 三原領 真宗福泉寺 有来リ之 半鐘損子申候ニ附 於同所 当九月ニ鋳替被申度候ニ附 則私方へ相頼被申越シ候ニ附 場所見合申候処 人家相離 火用心至極宜敷所ニ御座候 仍而私鋳替相渡申度奉存候間 何卒御赦免被為成遣候ハバ難有仕合ニ奉存候 尤真良村ヨリモ三原御役所へ御願申上候 筈ニ御座候 此段宜敷被仰上可被下候
以上
子 七月
鋳物師 惣十郎
年寄 木原幸右衛門 殿
庄屋 麻右衛門 殿
同 喜 助 殿
組頭 太 平 殿
わずか口径2尺の半鏑であるが,鋳造許可を得なければならなかった時代である。この場合も「出吹き 」の例Iにもれないが,人家をさけ,火災の心配がない鋳造場所の選定にまで気を配るところなどは鋳物師の面白上当然のことであったのだろう。
この文面では,半鐘の交換品を求めるために鋳造を依頼されたことになっている。当時,地方においては,新規に寺院を建立することや鐘楼の建築は容易にできなかった時代背景があるとすれば,寺鐘の製作はあくまでも交換品に集中することになってくる。これはまた,在地鋳物師の重要な役割であったものと考えられる。
しかし,交換品として鋳造した半鐘には,願文はもちろん鋳物師の名もとどめていない。伊原惣十郎は「……相調申候トモ名文ナシ」と控帳に記している。
(伊原家古文書より)
(※)本読み物は(社)日本鋳物協会中国四国支部発行の支部会報 こしき からの転載で、当内容は第7号からのものです。
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