寺鐘の出吹き
広島市工芸指導所 石谷凡夫
寺鐘には,必ず鋳物師の手が添えられている。鐘と寺院が不離一体となった古い時代から今日まで,寺鐘の製作にたずさわった鋳物師は,有名,無名を問わず,おびただしい数になるであろう。
現在,寺鐘は専門工場で,専門職化した人々によって製作されているが,ついこの間(明治期前半)までは,各地に在住した鋳物師達が,いたるところで鋳造していたという。
ところで,地元在住の鋳物師による寺鐘の鋳造は,発注した寺院の境内で〝野吹き〟が行われるのが普通であった。これを〝出吹き〟と称しているが,現地に出向き,地金を溶かして鋳込む,ということを表現した言葉であろうか。
この〝出吹き〟は,鋳物師にとっては,失敗は絶対に許されない反面,自己宣伝にはまたとない機会であった筈である。檀家の人たちが大勢見守るなか,見事に鋳込み終えたときの爽快さは格別であろうが,それまでの労苦は大変なものがあったと推察される。
江戸時代の末頃において,1人の鋳物師が1代において,受注製作する寺鐘の数は幾つぐらいであっただろうか。この時代は,1対1寺という社会構成がきちんと出来あがり,藩内の寺院は何百という数になろうが,鐘を製作する寺院は,そう多くはなかったと思われる。したがって鋳物師が求めに応じて梅雨入り前(秘)清掃術近郊近在から,さらに藩内各地の寺院に〝出吹き〟を実施したとしても,1代で数個の寺鐘を製作することはまれなことであったようだ。
本会報(※)で毎号紹介している,安芸国白市村の鋳物師,伊原惣十郎は,近郊近在の寺鐘を相当数(覚え控書に記されたもので6個)鋳造しているが,その内わずか1個ではあるが,他国(伊予藩)の寺鐘を受注しており,その時の請け合い状などが,覚え書きとして残されている。
その覚え書きによると,他国への〝出吹き〟は,めんどうな手続きが必要であったことがうかがえる。とりあえず覚え書を見てみよう。
覚
御拾免,被成聞候ハバ難有仕合奉存,木浦村ニテ鐘鋳之儀ハ,先達ヨリ蒙御免
許候儀ニ御座候,此度私方ヘ相頼候故 同国御役所ヘ御願申上候筈御座候 此段
宜敷被仰上可被下候
丑六月(嘉永六年) 鋳物師 惣十郎
年 寄 木原幸右衛門殿
庄 屋 直兵衛殿
組 頭 源兵衛殿
文面から察すると,寺鐘の鋳造には免許が必要であったことがわかる。この書状は村役人へ対して〝出吹き〟を諒解してもらうとともに,藩役所への許可申請を願い上げたものである。村役人から早速,次のような願い状が郡役所へ差し出されている。
予州越智郡伯方島,木浦村禅宗禅興釣鐘,於同所鐘鋳被相頼ニ附,請合支度
故,御願上書附
覚
一、釣鐘壱本 但シ弐尺弐寸
右ハ予州越智郡伯方島,木浦村禅宗禅興寺釣鐘,当七月廿六日,於同所鐘鋳被
申度ニ付,則私方へ被相頼請合仕度奉存候間,何卒右之通願状申候ニ付,相シラ
ベ申候処,相違モ無御座候ニ付,書附取次奉差上候 願之通 何卒急之御免許被
為仰付候ハバ難有仕合可奉存候 以 上
丑六月
年 寄 木原幸右衛門
庄 屋 直兵衛
組 頭 源兵衛
賀茂郡 御役所
調べたところ,たしかに釣鐘の鋳造依頼が来ており,鋳造予定日は間近に迫っていることでもあるので,至急許可して欲しい,という願い状である。
一方,地金の溶解や鋳型の乾燥の熱源となる木炭は,持参するか現地での調達によるところとなろうが,鋳物師ともなれば,たかが木炭とはいえず,吟味するのが当然であり,使いなれた木炭の持参となったのではないかと思う。
しかし,この時代は勝手に物産を他国へ移出することは禁止されており,木炭を持参する場合も許可を得なければならなかった。このため,惣十郎も木炭の持参許可を願い出ている。
覚
此度,予州木浦村禅興寺鐘鋳請合申候,奉御願申候テ 蒙御免許 吹炭四拾俵
持参仕候間,此段御願申上候 御聞届被置可被下候 己 上
丑六月
白市鋳物師 惣十郎
御山方御拾集所
このように,何事につけ,藩庁の管理下におかれていたのが,当時の実態であろう。
藩庁からの許可を得て,同年七月廿六日,現地において釣鐘を鋳造しているが,そのとき必要とした材料をメモからひもとくと次のようになる。
予州木浦村禅興寺釣鐘請合申候
一 釣鐘壱本 弐尺弐寸
一 出 来 七拾五貫目
地金 百拾五貫目
一 白 炭 参拾五俵
この〝出吹き〟に従事した職人の数などは不明であるが,釣鐘のできばえはどんなものであったのであろうか。
(※)本読み物は(社)日本鋳物協会中国四国支部発行の支部会報 こしき からの転載で、当内容は第5号からのものです。
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