常夜燈の復元
広島たたら会
江戸時代から百数拾年間にわかって
川面にはえ、街路をうつして
舟を導き、人々を案内してきた
鐡灯籠を
当時の姿をしのびつつ
現代鋳物技術の粋を結集して
復元し、ここに建立する。
平成三年三月吉日
広島県鋳物工業協同組合
広島たたら会
これは、復元常夜燈の製作を証し、時の流れを見つめながら、幾世代も、広島の河辺に、いろどりを与えてくれることを願いつつ、鐡燈籠に添えた銘板の文面である。
この銘板は、鐡燈籠が本川河岸に建っている限り、台盤上に保存されるであろう。
広島は「水の都」といわれる。市内を貫流する7筋の川(現在は6筋の川となっている)が、その象徴とされてきた。中国山地に源をもつ太田川が、河口に形成したデルタの上に、築かれた街の特色を、言い表したものであることはいうまでもない。
広島は戦国時代末期、毛利氏の築城を契機に、城下町として栄えてきた。城(鯉城)の主は毛利氏改易後、福島氏、そして浅野氏へと替ったが、街は太田川の川沿いに、時代の進展とともに発展し、なかでも本川すじは広島の代表的商業地として繁栄してきた。
もともとデルタに拓けた広島には、天然の良好湾がなく、潮入川となる河口の河岸を利用して港湾施設を設けざるを得なかった。
浅野氏の入部以後、藩の船屋敷、船作事所などが水主町(現在の平和公園の下流)に設けられ、海運の奨励につとめるとともに、商船が本川、元安川、半田屋川、西堂川などの川沿いに発達した商業地に、直接着岸できるよう河岸の整備を行っているが、その多くは船の着岸と荷物の積み降しに便利な雁木を築いている。
川沿いに設けられた船着き場は、藩外との交易もさることながら、藩内の物資輸送に重要な役割を果たした太田川水系の舟運(川舟による輸送)の発展に大きな影響をおよぼした。
太田川の舟運は、既に毛利氏の時代に、可部町と広島の間が開かれており、浅野氏統治下の元禄期(西暦1690年代)には、可部町よりさらに上流地まで延び、50艘を数えるほどに増加したという。
城下町広島が発展するにつれ、藩内とりわけ芸北地域からの物質輸送を担う太田川水系の舟運は、ますます盛んになってきた。それに加えて瀬戸内海を往来する海船の出入りも繁しくなり、広島の商業は藩内市場の中核として、大いに賑わったという。
このように城下の舟運が盛況となるにしたがい船が夜間においても安全に運航できる「道しるべ」が必要となってこよう。
その「道しるべ」として常夜燈が設けられ、夜間でも船着場への出入りを容易にしたという。
広島の河岸に、常夜燈がいつの頃から設けられたかは不詳であるが、瀬戸内海の島々には、古い船着場に、石造りの常夜燈が、今も保存されているところがあり、相当古くから船との係りを持っていたことがしのばれる。
太田川河口の常夜燈について、最も古い記録は、天明元年(西暦1781年)「西土手町(現在の土橋、境町あたり)の堤上に鐡燈籠一基を建立す」(広島市史、大正11年刊)と記されたものである。
通例からみれば、石造りの灯籠を常夜燈にすればよかった筈であるが、それを鐡燈籠にしたところが広島の特徴であると思われる。
石造りの場合、素材となる御影石は、藩内にはその産地がありながら、敢えて鋳物にした理由は何であったのだろうか。
ここで想い起こされるのが、江戸時代初期から、鋳物の産地として知られる可部町の存在である。
因に江戸時代を通じて、可部町およびその周辺には、三宅氏をはじめ多数の鋳物師が輩出したといわれる。
可部町は石見街道の分岐点であり、また太田川と三篠川の合流地でもある。このため、早い時代から町場が設けられていた。その上、太田川を下ること約4里のところに、山陽街道が東西に延びているという地理的条件は、物資の集散地として栄える利点となっていたものと考えられる。
江戸時代の前期(寛永頃)には、可部町に宿駅が設けられ、城下町広島の繁栄にともなって、広島への物資中継の拠点となる一方、内陸部の地域市場への中心地として、経済的に重要な役割を担うにいたっている。
こうした背景に加え、中国山地は古くから鉄の産地として名高いが、山陰地方の「玉鋼」に対し、山陽側、特に芸北地方は鉄鋳物の素材となる「ずく銑」を産し、それら素材が可部町を中継していたことも鋳物産業の興隆に好条件を与えているといえよう。
こうしてみると、城下町広島と可部町は、経済的に切っても切れない間柄であり、両者をつなぐ川運は、藩経済の動脈となっていた。
常夜燈が建立された本川沿いは、広島で最も栄えた商業地である。太田川を下ってきた川舟が、昼夜の別なく着岸してくるようになると、どうしても夜の「道しるべ」が必要となってくる。
ここで人々が目を向けたのが可部町に根ずく鋳物産業であり、鐡燈籠を常夜燈に、と策したのであろうか。
江戸時代の本川すじの状況を知る手がかりは、文化5年(西暦1808年)に描かれた「江山一覧図」(写真1)がある。
常夜燈が描かれている唯一の絵図であるが、護岸から突出した石垣の上に常夜燈が建ち、河岸の路上には往きかう多くの人々、岸辺による舟の様子が描かれ、当時の本川すじの賑わいがしのばれる。
時代が改まり、明治16年(西暦1883年)、「広島諸商仕入買物案内記」が出版されているが、本川すじの商家の紹介に併せて、常夜燈も描かれ、舟運の利用が今なお盛んな状況をうつし出している。
こうした広島の街を紹介する絵図から察すると、常夜燈は建立されて以来、川をのぼり下りする舟の案内はもちろん、街を往来する人々にとっても街燈の役割を果たし、本川すじのシンボルとなっていたのであろうか。
ところで「江山一覧図」に描かれた常夜燈は、広島市の調査では、昭和10年まで本川河岸に保存されていたという。そして調査した古老によれば、確かに鉄製であったといい、原爆で消失したか、太平洋戦争時、鉄資源として使われたかその行方は不明である。
史実的には、河岸への鐡燈籠建立は天明元年のもののみである。これが絵図にも描かれ、昭和10年代に残っていたものとすれば、建立以来、百数拾年間、環境的には良好とはいえない場所で、風雨に耐えて、建ち続けていたことになる。
しかし、常夜燈は行方不明となっても、常夜燈のために築かれた石垣や石積みは当時の姿そのまま残され、戦後改修された護岸は、その石垣に合せて築かれている。
広島市では新たな観光資源の創出を目的に、一昨年より「ひろしま観光ライトアップ事業」を実施している。「水の都」にふさわしく、本川沿いに残る常夜燈石積みを利用して、再び常夜燈の灯りをともし、新しい夜の景観づくりに役立たせようと、早くから計画が検討されていたが、愈々平成2年度に常夜燈復元事業の実施が決まった。
当初、広島市では石造りの燈籠を考えていたようであるが、先にあげた「江山一覧図」や市史の文献調査、そして古老の話から、常夜燈には鐡燈籠を用いることが、歴史的に合致するものとして、鋳物による常夜燈復元を決めたものである。
しかしながら絵図に描かれている常夜燈から、詳細なデザインを読みとることはできない。だが幸いなことに、「江山一覧図」(写真1)が描かれた年と同じ文化5年に製作、献納された鐡燈籠が、鋳物業が栄えた可部町に、今も保存されており、その鐡燈籠をモデルに、復元常夜燈のデザインを決めることにした。
可部町の鐡燈籠(広島市重要文化財)については、既に「こしき」でも紹介しているように、可部の鋳物師、三宅惣左衛門延政が製作したもので、当時川舟の発着場であった場所に建立されて、これも舟の「道しるべ」となっていたものであろう。
広島市は、常夜燈の復元を行うことにしたものの、事業の性格上、地場鋳物業者への発注は至当であるが、その対象を単独企業に絞ることに困惑を感じていた。また鋳物業界においても、こうした記念的事業に対しては、業界全体で対応することが最も望ましいと判断し、ここに復元する常夜燈の製作、建立は広島県鋳物工業協同組合が担当することとなった。これには広島市の好意ある計らいと伝統的地場産業として繁栄してきた鋳物業界の実績が、大きな力となっていたものと考えられる。
広島県鋳物工業協同組合は、地場中小鋳物者の団体ではあるが、このたびの常夜燈の製作、建立は組合の青年部会である「広島たたら会」がまとめあげている。
「広島たたら会」は。戦後の復興もまだままならない昭和26年、当時の組合員のなかの若手経営者達が、自己研鑽を目的に建立した研究会を母体として、今日に継承されたものである。現在、業界のリーダーとなって活躍している多くの先輩達も「広島たたら会」に、かつては籍をおき、その時、その場に応じた活動を実施してきた履歴を持っている。
広島市においても「広島たたら会」の活動に理解を示され、可能な限りの支援を頂戴することができた。これも会員それぞれが、常夜燈の製作を活動の象徴として真摯な努力を傾けたことへの報いであろう。
それにもまして会員にとっては、「広島たたら会」設立40周年目に当る今年、この鐡燈籠製作を会の記念事業のひとつとして捉え、会の永い歴史のなかで、かつてなかった協同事業を、企業の枠を越えて成し遂げようとした会員一同の熱情が盛りあがったことが、大きな収穫であった。
それでは、具体的に復元常夜燈の製作過程を概観してみよう。
まず広島市の常夜燈復元業務の指針を抜粋しておく。
ひろしま観光ライトアップ事業に伴う常夜燈復元業務実施要領
1.目的
ひろしま観光ライトアップ事業の一環として、現在、中区土橋町の本川沿いに残っている常夜燈の基礎の石積みを利用して、当時の常夜燈を復元し、これをライトアップすることにより、「水の都」広島にふさわしい新たな観光資源の創出を図る。
2.復元する常夜燈本体の材質、大きさ、基数
3.現存する基礎の石積みの形状、大きさ、所在地
4.復元に際しての基本的な考え方
完全復元は資料の制約上不可能である。このため可部町に残された鐡燈籠をモチーフとして再現し、できるだけ歴史的事実に沿った復元につとめる。
復元する常夜燈の形状や模様は、可部町の鐡燈籠をもとに、そのデザインを決めるわけである。
このため「広島たたら会」では、会員企業の協力を得て、現物の形状測定を行った。現存する鐡燈籠は風化した部分もみられたが、火袋の窓は亀甲紋、中台の側面(六面)は龍をあしらった模様など、その細工のこまやかさが目についた。復元鐡燈籠においてもこうした細工の精緻さが主題である。
図1は復元鐡燈籠を図示したものである。これは既存の鐡燈籠を測定したデータをもとに描いたCAD図であるが、この図で詳細に表わされない 基台と中台の模様を図2に示す。
常夜燈の木型は、宝珠から底盤までを8分割して製作したが、中台と基台の模様は、すべて手彫りである事を特記しておきたい。
鋳造は、8分割された鐡燈籠部分を、7社の会員企業において行ったが、とくに鋳造法の指定を行わず、それぞれの企業の判断にゆだねた。そのため鋳型はフラン鋳型が大勢を占めたが、なかにはガス型やフルモールド法も活用されている。
鋳鉄の溶解にはキュポラ、低周波炉および高周波炉が用いられ、いずれもFC200の指定材質の鋳鉄を得ている。
復元常夜燈の製作工程を図3に、また製作中の状況の一部を写真2~19 に示す。そして写真17は、本川河岸の石積みに据付ける状況を写したものであるが、当日は小雨混じりの悪天候にもかかわらず、会員全員が参加して、半日におよんだ据付工事を見守ったものである。写真18は据付が完了した直後の常夜燈である。
常夜燈をライトアップする工事も、据付工事と相前後して行われた。火袋内にはナトリウムランプを配し、常夜燈をはさんで上流側と下流側の地面には、常夜燈を照らす水銀ランプが設置された。
なおライトアップは午後6時から午後10時まで行われる。
約半年におよぶ常夜燈の復元業務であるとはいえ、その間「広島たたら会」の行事はすべて常夜燈に集約されてしまったが、予定通り平成3年3月27日、据付を完了する事ができた。
この地区では戦後以降、初めての挑戦となった工芸鋳物を、伝統的な手法である廻し型によらず、近代鋳造法で見事製作したことは、「広島たたら会」会員の若さと活動力が源泉となっていると思う。
そして平成3年4月15日、復元常夜燈の除幕式が広島県鋳物工業協同組合の主催で挙行された。
快晴のもと、本川河岸の式場には、広島市長、広島市議会議長をはじめ、広島市業界および工事の関係者が多数出席してくださり、広島市長からは感謝状を頂くなど、常夜燈復元につとめた「広島たたら会」にとっては、またとない記念事業としての意義が深まったわけである。
常夜燈の復元業務にたずさわって以来、多くの方々に助言と協力をいただいたが、とりわけ鋳物製作にあたった会員企業の方々に対して深甚なる謝意を申し述べたい。
また業務遂行中、数々の配慮と助力をいただいた広島市に感謝の意を表わす次第である。
(文責、エムアイシー工学事務所 石谷凡夫)
この銘板は、鐡燈籠が本川河岸に建っている限り、台盤上に保存されるであろう。
広島は「水の都」といわれる。市内を貫流する7筋の川(現在は6筋の川となっている)が、その象徴とされてきた。中国山地に源をもつ太田川が、河口に形成したデルタの上に、築かれた街の特色を、言い表したものであることはいうまでもない。
広島は戦国時代末期、毛利氏の築城を契機に、城下町として栄えてきた。城(鯉城)の主は毛利氏改易後、福島氏、そして浅野氏へと替ったが、街は太田川の川沿いに、時代の進展とともに発展し、なかでも本川すじは広島の代表的商業地として繁栄してきた。
もともとデルタに拓けた広島には、天然の良好湾がなく、潮入川となる河口の河岸を利用して港湾施設を設けざるを得なかった。
浅野氏の入部以後、藩の船屋敷、船作事所などが水主町(現在の平和公園の下流)に設けられ、海運の奨励につとめるとともに、商船が本川、元安川、半田屋川、西堂川などの川沿いに発達した商業地に、直接着岸できるよう河岸の整備を行っているが、その多くは船の着岸と荷物の積み降しに便利な雁木を築いている。
川沿いに設けられた船着き場は、藩外との交易もさることながら、藩内の物資輸送に重要な役割を果たした太田川水系の舟運(川舟による輸送)の発展に大きな影響をおよぼした。
太田川の舟運は、既に毛利氏の時代に、可部町と広島の間が開かれており、浅野氏統治下の元禄期(西暦1690年代)には、可部町よりさらに上流地まで延び、50艘を数えるほどに増加したという。
城下町広島が発展するにつれ、藩内とりわけ芸北地域からの物質輸送を担う太田川水系の舟運は、ますます盛んになってきた。それに加えて瀬戸内海を往来する海船の出入りも繁しくなり、広島の商業は藩内市場の中核として、大いに賑わったという。
このように城下の舟運が盛況となるにしたがい船が夜間においても安全に運航できる「道しるべ」が必要となってこよう。
その「道しるべ」として常夜燈が設けられ、夜間でも船着場への出入りを容易にしたという。
広島の河岸に、常夜燈がいつの頃から設けられたかは不詳であるが、瀬戸内海の島々には、古い船着場に、石造りの常夜燈が、今も保存されているところがあり、相当古くから船との係りを持っていたことがしのばれる。
太田川河口の常夜燈について、最も古い記録は、天明元年(西暦1781年)「西土手町(現在の土橋、境町あたり)の堤上に鐡燈籠一基を建立す」(広島市史、大正11年刊)と記されたものである。
通例からみれば、石造りの灯籠を常夜燈にすればよかった筈であるが、それを鐡燈籠にしたところが広島の特徴であると思われる。
石造りの場合、素材となる御影石は、藩内にはその産地がありながら、敢えて鋳物にした理由は何であったのだろうか。
ここで想い起こされるのが、江戸時代初期から、鋳物の産地として知られる可部町の存在である。
因に江戸時代を通じて、可部町およびその周辺には、三宅氏をはじめ多数の鋳物師が輩出したといわれる。
可部町は石見街道の分岐点であり、また太田川と三篠川の合流地でもある。このため、早い時代から町場が設けられていた。その上、太田川を下ること約4里のところに、山陽街道が東西に延びているという地理的条件は、物資の集散地として栄える利点となっていたものと考えられる。
江戸時代の前期(寛永頃)には、可部町に宿駅が設けられ、城下町広島の繁栄にともなって、広島への物資中継の拠点となる一方、内陸部の地域市場への中心地として、経済的に重要な役割を担うにいたっている。
こうした背景に加え、中国山地は古くから鉄の産地として名高いが、山陰地方の「玉鋼」に対し、山陽側、特に芸北地方は鉄鋳物の素材となる「ずく銑」を産し、それら素材が可部町を中継していたことも鋳物産業の興隆に好条件を与えているといえよう。
こうしてみると、城下町広島と可部町は、経済的に切っても切れない間柄であり、両者をつなぐ川運は、藩経済の動脈となっていた。
常夜燈が建立された本川沿いは、広島で最も栄えた商業地である。太田川を下ってきた川舟が、昼夜の別なく着岸してくるようになると、どうしても夜の「道しるべ」が必要となってくる。
ここで人々が目を向けたのが可部町に根ずく鋳物産業であり、鐡燈籠を常夜燈に、と策したのであろうか。
江戸時代の本川すじの状況を知る手がかりは、文化5年(西暦1808年)に描かれた「江山一覧図」(写真1)がある。
常夜燈が描かれている唯一の絵図であるが、護岸から突出した石垣の上に常夜燈が建ち、河岸の路上には往きかう多くの人々、岸辺による舟の様子が描かれ、当時の本川すじの賑わいがしのばれる。
時代が改まり、明治16年(西暦1883年)、「広島諸商仕入買物案内記」が出版されているが、本川すじの商家の紹介に併せて、常夜燈も描かれ、舟運の利用が今なお盛んな状況をうつし出している。
こうした広島の街を紹介する絵図から察すると、常夜燈は建立されて以来、川をのぼり下りする舟の案内はもちろん、街を往来する人々にとっても街燈の役割を果たし、本川すじのシンボルとなっていたのであろうか。
ところで「江山一覧図」に描かれた常夜燈は、広島市の調査では、昭和10年まで本川河岸に保存されていたという。そして調査した古老によれば、確かに鉄製であったといい、原爆で消失したか、太平洋戦争時、鉄資源として使われたかその行方は不明である。
史実的には、河岸への鐡燈籠建立は天明元年のもののみである。これが絵図にも描かれ、昭和10年代に残っていたものとすれば、建立以来、百数拾年間、環境的には良好とはいえない場所で、風雨に耐えて、建ち続けていたことになる。
しかし、常夜燈は行方不明となっても、常夜燈のために築かれた石垣や石積みは当時の姿そのまま残され、戦後改修された護岸は、その石垣に合せて築かれている。
広島市では新たな観光資源の創出を目的に、一昨年より「ひろしま観光ライトアップ事業」を実施している。「水の都」にふさわしく、本川沿いに残る常夜燈石積みを利用して、再び常夜燈の灯りをともし、新しい夜の景観づくりに役立たせようと、早くから計画が検討されていたが、愈々平成2年度に常夜燈復元事業の実施が決まった。
当初、広島市では石造りの燈籠を考えていたようであるが、先にあげた「江山一覧図」や市史の文献調査、そして古老の話から、常夜燈には鐡燈籠を用いることが、歴史的に合致するものとして、鋳物による常夜燈復元を決めたものである。
しかしながら絵図に描かれている常夜燈から、詳細なデザインを読みとることはできない。だが幸いなことに、「江山一覧図」(写真1)が描かれた年と同じ文化5年に製作、献納された鐡燈籠が、鋳物業が栄えた可部町に、今も保存されており、その鐡燈籠をモデルに、復元常夜燈のデザインを決めることにした。
可部町の鐡燈籠(広島市重要文化財)については、既に「こしき」でも紹介しているように、可部の鋳物師、三宅惣左衛門延政が製作したもので、当時川舟の発着場であった場所に建立されて、これも舟の「道しるべ」となっていたものであろう。
広島市は、常夜燈の復元を行うことにしたものの、事業の性格上、地場鋳物業者への発注は至当であるが、その対象を単独企業に絞ることに困惑を感じていた。また鋳物業界においても、こうした記念的事業に対しては、業界全体で対応することが最も望ましいと判断し、ここに復元する常夜燈の製作、建立は広島県鋳物工業協同組合が担当することとなった。これには広島市の好意ある計らいと伝統的地場産業として繁栄してきた鋳物業界の実績が、大きな力となっていたものと考えられる。
広島県鋳物工業協同組合は、地場中小鋳物者の団体ではあるが、このたびの常夜燈の製作、建立は組合の青年部会である「広島たたら会」がまとめあげている。
「広島たたら会」は。戦後の復興もまだままならない昭和26年、当時の組合員のなかの若手経営者達が、自己研鑽を目的に建立した研究会を母体として、今日に継承されたものである。現在、業界のリーダーとなって活躍している多くの先輩達も「広島たたら会」に、かつては籍をおき、その時、その場に応じた活動を実施してきた履歴を持っている。
広島市においても「広島たたら会」の活動に理解を示され、可能な限りの支援を頂戴することができた。これも会員それぞれが、常夜燈の製作を活動の象徴として真摯な努力を傾けたことへの報いであろう。
それにもまして会員にとっては、「広島たたら会」設立40周年目に当る今年、この鐡燈籠製作を会の記念事業のひとつとして捉え、会の永い歴史のなかで、かつてなかった協同事業を、企業の枠を越えて成し遂げようとした会員一同の熱情が盛りあがったことが、大きな収穫であった。
それでは、具体的に復元常夜燈の製作過程を概観してみよう。
まず広島市の常夜燈復元業務の指針を抜粋しておく。
ひろしま観光ライトアップ事業に伴う常夜燈復元業務実施要領
1.目的
ひろしま観光ライトアップ事業の一環として、現在、中区土橋町の本川沿いに残っている常夜燈の基礎の石積みを利用して、当時の常夜燈を復元し、これをライトアップすることにより、「水の都」広島にふさわしい新たな観光資源の創出を図る。
2.復元する常夜燈本体の材質、大きさ、基数
材 質 | 鋳鉄製品(ねずみ鋳鉄3種) |
大きさ | 8尺 |
基 数 | 1基 |
3.現存する基礎の石積みの形状、大きさ、所在地
形 状 | 平面八角形 | 上下2段積み |
大きさ | 下段の高さ | 61cm |
直 径 | 136cm |
|
一 辺 | 57cm |
|
上段の高さ | 24cm | |
直 径 | 93cm | |
一 辺 | 40cm | |
所在地 | 広島市中区土橋町1番地地先本川河岸 |
4.復元に際しての基本的な考え方
完全復元は資料の制約上不可能である。このため可部町に残された鐡燈籠をモチーフとして再現し、できるだけ歴史的事実に沿った復元につとめる。
復元する常夜燈の形状や模様は、可部町の鐡燈籠をもとに、そのデザインを決めるわけである。
このため「広島たたら会」では、会員企業の協力を得て、現物の形状測定を行った。現存する鐡燈籠は風化した部分もみられたが、火袋の窓は亀甲紋、中台の側面(六面)は龍をあしらった模様など、その細工のこまやかさが目についた。復元鐡燈籠においてもこうした細工の精緻さが主題である。
図1は復元鐡燈籠を図示したものである。これは既存の鐡燈籠を測定したデータをもとに描いたCAD図であるが、この図で詳細に表わされない 基台と中台の模様を図2に示す。
常夜燈の木型は、宝珠から底盤までを8分割して製作したが、中台と基台の模様は、すべて手彫りである事を特記しておきたい。
鋳造は、8分割された鐡燈籠部分を、7社の会員企業において行ったが、とくに鋳造法の指定を行わず、それぞれの企業の判断にゆだねた。そのため鋳型はフラン鋳型が大勢を占めたが、なかにはガス型やフルモールド法も活用されている。
鋳鉄の溶解にはキュポラ、低周波炉および高周波炉が用いられ、いずれもFC200の指定材質の鋳鉄を得ている。
復元常夜燈の製作工程を図3に、また製作中の状況の一部を写真2~19 に示す。そして写真17は、本川河岸の石積みに据付ける状況を写したものであるが、当日は小雨混じりの悪天候にもかかわらず、会員全員が参加して、半日におよんだ据付工事を見守ったものである。写真18は据付が完了した直後の常夜燈である。
常夜燈をライトアップする工事も、据付工事と相前後して行われた。火袋内にはナトリウムランプを配し、常夜燈をはさんで上流側と下流側の地面には、常夜燈を照らす水銀ランプが設置された。
なおライトアップは午後6時から午後10時まで行われる。
約半年におよぶ常夜燈の復元業務であるとはいえ、その間「広島たたら会」の行事はすべて常夜燈に集約されてしまったが、予定通り平成3年3月27日、据付を完了する事ができた。
この地区では戦後以降、初めての挑戦となった工芸鋳物を、伝統的な手法である廻し型によらず、近代鋳造法で見事製作したことは、「広島たたら会」会員の若さと活動力が源泉となっていると思う。
そして平成3年4月15日、復元常夜燈の除幕式が広島県鋳物工業協同組合の主催で挙行された。
快晴のもと、本川河岸の式場には、広島市長、広島市議会議長をはじめ、広島市業界および工事の関係者が多数出席してくださり、広島市長からは感謝状を頂くなど、常夜燈復元につとめた「広島たたら会」にとっては、またとない記念事業としての意義が深まったわけである。
常夜燈の復元業務にたずさわって以来、多くの方々に助言と協力をいただいたが、とりわけ鋳物製作にあたった会員企業の方々に対して深甚なる謝意を申し述べたい。
また業務遂行中、数々の配慮と助力をいただいた広島市に感謝の意を表わす次第である。
(文責、エムアイシー工学事務所 石谷凡夫)
~常夜燈の復元~おわり
※本稿は、支部会報「こしきNo.14(1991年発行)」より許可を得て転載しております。
無断での転載などはお控え下さい。